お気持ち表明

ただのお気持ち表明です。専ら自分語りと思考の整理を兼ねて

新曲投稿(2か月前)とそれにまつわる事と生き死にのお話

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 先日というか二ヶ月前、『真夏の死神』という曲を投稿しました。ガッツリシューゲイザーで、これまで作った中で一番の出来という自負があります。音もかなり良い感じだと思う。轟音パートを大音量で聴いたら気持ちいいのでおすすめです。

 何故二ヶ月も経った今このブログが書かれているのかというと、一度ほぼ書き終えたはずの記事を保存せずに消してしまい、全ておじゃんになって一切のモチベーションが消失したという理由があります。なんでゲームのデータはこまめにセーブするのにこういうのになるとやらないんでしょうね。書き直すのが本当に億劫だったけども、ちゃんと書いておきたかったので。

 この曲には特別な思い入れがあって、一年間ずっと溜め込んで考えた気持ちを昇華する為に作ったものです。今回はそれにまつわる話でも書こうと思います。ある特定の個人の事について書いているので嫌な人はここから先を読まない事をおすすめします。

 

 

 

 

 

 

 

 この曲が完成してちょうど一年程前、僕の大学の友人が自殺した。友人というのは、僕が一方的に友人と思っていただけであって彼の方はそうでもなかったのかもしれないがそれはさておき、この曲を作ったのは、そんな彼に向けた自分なりの供養でもあり、まるで呪いのように一年間僕の心に纏わりついた複雑な感情を断ち切る為でもあった。死人に口なしとはよく言ったもので、別に彼にこの曲が届くなんて思ってはいない。勿論届いていればどれだけ嬉しい事かと思うが、所詮自己満足である事に変わりない。

 彼とは大学に入ってから最初期に知り合った。まず第一印象で変な人だと思った。聞けば哲学科らしい。THE BACK HORNが大好きだと言い、僕も好きなバンドだったのですぐさま意気投合した。同じ軽音サークルに入ったりもしたが、彼は最終的にドロップアウトしてしまった。

  僕は法律を学ぶ身であり哲学科ではないが、哲学は好きだし興味がある。当時高校時代にニーチェをちょろっと読んだ程度の知識しかない僕に、彼は哲学について色々と教えてくれた。あの時点で彼には自分の思想というものが出来上がっていたのだろうと思う。話を聞いても、僕には難しくてさっぱり理解できなかった。しかし、この時点でなんとなく彼は追い詰められる事による精神の困窮ではなく、迷いも躊躇いもなく、自分の意思で自ら死ねる人間なんだろうなという気がした。言うなれば、鉄の意志を持っているといったところだ。実際にはそうでなかったのかもしれないが、これが僕の私見である。

 彼とは一緒に行動したり、遊んだりはあまりしなかった。お互いに授業が忙しくなり、彼があまりサークルにも顔を出さなくなると共に会う機会も自然と減っていった。正直に言って最終的には疎遠になってすらいた。

 

 そうこうして去年の夏休み、唐突に彼が死んだという報せを受けた。

 

 最初は、というか、実際に葬式に行くまで信じられなかった。正直「質の悪いドッキリだ」とすら思っていた。今思えば、ただその事実を受け入れたくなかったのだろう。現実逃避である。彼はちゃんとそこにいた。とても安らかそうな顔で眠っていた。

 彼が死ぬ直前、一体どんな気持ちだったのかを推し量ることはできない。ただ、僕はその時「ああやっと死ねたんだな」という気持ちと、「死んだという事実を認めたくない」という二つの気持ちがあった。先立たれることによって残される側の人間の気持ちを嫌という程味わってしまった。それと同時に、僕は死ねない人間だという事実も突き付けられた。そうして呪いのようなものが心に一年間残り続けた。

 それまで僕はとっとと自殺して苦しい生から解放されてしまいたい、などと安易なことを考えていた。今だって別に長生きなんてしたくはないし何らかの要因で人生からドロップアウトしてしまいたい、という気持ちは変わらずにあるのだけれども、それでも残される側の気持ちを味わってしまった以上、自殺なんていくらしたいと思っていてもどうせできっこないなぁと思っている。何故なら、僕はあの時にとても悲しんでしまったから。喪失感だとか空虚だとか、自殺は人にとても悲しいものを与えてしまう。僕ですら味わったそんなものを自分から他者に与えてしまうなんてとてもじゃないが僕には無理です。自分が死んで悲しむ人間がいるなどと仮定するのは傲慢かもしれないが、それでも親や親戚にはよくしてもらっているし、大切にされてはいるようなので。少なくとも、そういう人達が生きている間はちゃんと生きないといけないらしい。

 結局、自分はそのような義務感で生きているという事実は否めないのだけども、僕はそういうしがらみから逃れられない弱い人間だということだ。そういった全部を投げ捨てて自らの意思を貫き通した彼を僕は心の底から尊敬しているし、強い人だな、と本当に思っている。つまるところ、大袈裟な表現にはなるけども、自殺という大業を成し遂げた彼に対して羨望や畏怖といった感情を抱くと共に、最後まで僕は迷いながらズルズルグダグダと生きていくしかない人間なんだろうとこの一年間ずっと考えて痛感したのだ。歌詞にもそういった内容を書いた。一年間ずっと引きずった結果がこの結論である。生き地獄だな、とも思う。

 この曲を作って、彼や死ぬ事に対しての思いが昇華しきれたかと言えば嘘になる。今でもまだ何度も考えてしまうし、その事に引っ張られそうにもなる。それでも、曲にできたという事はある程度気持ちの整理が付いたという事なのだろう。当然ながら彼のような強烈な人間を忘れる事などできない。生きていた頃の彼の姿はずっと心の中に映り続けている。兎も角、これが彼に対する僕なりの供養になれば幸いである。

 好きな時に死を自分で選べるような世の中はどれだけ素晴らしいのだろう。最終的に、死にたい人間を安らかに安楽死させることが許される世の中になれば良いと思う。もちろん非現実的すぎる話であり、絶対に来ないだろうが、僕はそんな世の中を望んでいる。どうしようもなくなってしまったら最後にとびっきりのご馳走を食べて、友人とこれまでの思い出を語り合って、関わってきた人達に囲まれて、笑顔でお別れする、そんな素敵な死に方をしたい。こんなの、あまりにも高望みすぎる願望だろうか。

 

 以上。そんな感じで最後に歌詞を置いておきます。あと、来年中にCD音源を作ってM3等の同人音楽イベントで販売しようというのを計画しているので協力者を募集しています。内容としては主にジャケットや曲を投稿する際のイラストを描いてくれたり、ちょっとMVっぽい動画を作ったりしてくれる人です。絵を描けたり動画を作れるという知り合いの人で、興味があるという人は是非とも連絡してください。報酬はきっちり支払うので、よろしくお願いします。

 

 

歌詞

夏の日 陽炎 波打ち際で笑った君の顔
揺れてる 向日葵 遠のく君の背中を眺めてる
君はもういない そんな事分かってるのに どうして
消えてく風景 モノクロ色をしている追憶

君は笑った 手を振っていた
立ち尽くした 僕はただ
行かないでと手を伸ばした 無駄なことだと知っていたんだ
これはそうさ 君が望んだ 僕はそれを知っていたんだ
追いつけない 分かっている
ああ 行ってしまう……

突き刺す日差し 増してく死の展望が笑ってる
天井 ロープ 骸骨の顔の人が笑ってる

君は笑った 手を振っていた
立ち尽くした 僕はただ
死神に連れて行かれたんだ そんな気がしたんだ 暑さのせいかな
これはそうさ 君が望んだ 仕方ないと割り切れずに
夏の憂鬱 僕を覆って 纏わりつく

君は笑った 手を振っていた
立ち尽くした 僕はただ
行かないでと手を伸ばした 無駄なことだと知っていたんだ
君はそうした 僕はどうだ 分からぬままに彷徨うだけ
そんな風に生きていくんだろうなぁ
僕はずっと……

 

 

9.8 新曲投稿

 ボカロ二作目となる新曲をサウンドクラウドに投稿しました。

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 タイトルは『ナイン・ポイント・エイト』と読みます。

 

 最近暑いので、爽やかで清涼感ある曲を作りたかった。9.8という数字は重力加速度の事。この曲名を付けた経緯としては、僕はDeemoという音ゲーがとても好きなのだが、その中に『Nine point eight』という僕がとりわけ好きな同名の曲が収録されており、その曲を強くリスペクトさせてもらった。あとはジャパニーズ・シューゲイザーを参照してサウンドを作り、結果的にめちゃくちゃ爽やかな曲になったと思う。

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 話は変わるが、僕は曲において歌詞という要素を特に重要視している。そんなわけで必ずある一定のテーマ性を持って歌詞を書いているわけだが、しかしだからといって曲を聴いた人がどんなイメージを頭に浮かべるかなど人それぞれ、作り手がその種明かしをするのはイメージの押し付けになりかねないのだろうか、どうなのかなどと思ったりする。でもちゃんと意図が伝わったら嬉しいので伝わって欲しいっていう気持ちもあったりもする。非常に面倒臭い。面倒くさいので種明かしします僕がどうイメージして作ろうが聴く人には関係ないし聴いたそのままを受け取れば良いと思います。

 まあ簡単に言えば恋人と死別してしまった男が逡巡の末後追いで飛び降り自殺をする、もしくは飛び降り心中をするという風景を思い描きながら歌詞を書きました、という内容。でも見方を変えれば男女二人の爽やか青春劇を描いた歌詞のようにも見えるのでそういうので良いと思う。

 

 インターネット宅録マンは孤独との戦いだと強く思った。バンドと違って意見を問う相手がいないので、全てが己の感覚に依存する。その分しがらみがないので気楽でもある。当たり前のように宅録で色々やっている人は凄い、本当に。自分ももっとアウトプットを増やして自分なりの音楽を深化させていきたいと思う。その為にはもっとたくさん音楽を聴かなければならないなと思った。次はどんな曲を作ろうかなぁ。

 というわけで歌詞を置いて終わります。

 

9.8
「勇気を出してみてよ」
「私のところにおいで」
君は待っているの
低い場所でそうずっと待っている

「勇気を出してみたいの」
「君のところにいきたいの」
ぼくは迷っているよ
高い場所でずっと

 

ナイン・ポイント・エイト
ぼくらの 距離を縮めていく
ナイン・ポイント・エイト
堕ちてく 心が繋がる
構わないからさ ぶつかってみてよ
それで全て楽になれる
それで全て救われる

 

ああぼくは怖いんだ
堕ちるのが怖いんだ
「大丈夫だよ 怖くないよ」
「あなたと一緒なら」

 

ナイン・ポイント・エイト
ぼくらは 惹かれあい堕ちていく
ナイン・ポイント・エイト
ぼくたちの 加速度は増していく
ナイン・ポイント・エイト
もう迷わない ぼくは一歩踏み出す
ナイン・ポイント・エイト
君の元へ 飛び込むさ今すぐ
鳥のように飛んだ その手を広げた
これで全てが救われる
「ずっと待っていたよ もう一人じゃない」
「あなたと一緒に飛べるから」
遥かなる空のむこうへ
どこまでも君と一緒に
空へと堕ちていく

ボカロP、始めました

 

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 以前からかねがね計画していた、「ボーカロイドで自分の曲を作る」という計画をついに実行した。僕は今バンドを2つ程やっているのだが、そちらは作詞も作曲も違う人がやっている。僕はやはり、自分の頭の中にあるものを表現してみたいと思った。そして今はパソコンとソフトがあればそれが可能になる。良い時代ですね。

 cubase自体は以前から持っていたが使っていなかったので、まず操作のやり方もままならずにウンウン唸った。でも初めてパソコンからアンプの音が出た時は心底感動した。あと、ギターを弾けないので録音の時に全然良いテイクを取れずに苦労した。なんとか曲として聴けるくらいに録れたのも、もう少しやりようがあったと思ったけど今の僕にはこれがベストテイク。ギタリストって本当に凄いなと思う。練習して精進します。ミックスとマスタリングは何も分からないので人工知能が自動的に曲を解析して勝手にやってくれるという技術の進歩の塊のようなソフトにほとんど任せて僕はほとんど感覚のみで微調整をした。本当にこれでいいのかという不安はつきまとうが、今の僕にとってベストなものになったと思う。少しずつ勉強していきたい。今より成長したら再録するかも。

 そもそも個人製作のボカロなんて普段やってるバンド以上に趣味でしかない。別に僕はボカロPとして世に名を知らしめたいわけではないし、これはバンドにも言える僕の持論なのだが世間に迎合するだけのしょうもない音楽を作るなんてそれやってる意味ある?とすら思う。どうせやるなら僕は自分が良いと思うものだけを作りたい。自分の作る音楽を一番聴きたいリスナーは常に僕自身である。

 僕には間違いなく才能はない。それでも僕は音楽という形で自分自身を表現しないと世のあれこれや自己矛盾で完全に心が折れて今頃自殺してしまっていると思う。才能がないなりに、自分を救う為に創作をしたい。そんな自己満足の産物を評価してくれる人が少しでもいるなら、それは僕が一番報われる瞬間なのだろうと強く思う。

 

 というわけで、処女作として「灰になる」という曲を作りました。今後はこの路傍の石という名義で楽曲制作していきます。主に僕の好きなオルタナティブロック、シューゲイザー等を基調とした曲を作る予定だけど、ゴリゴリのEDMも作りたいなとも思ったりする。まあその時作りたいと思ったものを作ります。

 この曲は敬愛するsyrup16gの中で特に好きな曲である不眠症を強く意識して作った。というかイントロとかほぼそのまんまである。聴けば分かる。

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 作ってるうちに気づいたら7分を超えていてびっくりした。しかし、決して飽きる事のない7分間である。是非とも浮遊感あるサウンドに陶酔してもらいたい。夜中とかに聴くと多分いい感じになると思います。

 最後に歌詞を載せてこの辺で終わろうと思います。僕は思ってもいない事を書きたくないので、歌詞に書かれるのはほとんど僕の思想・呪詛です。曲の感想はいつでもお待ちしております。DMとかで個人的に教えてくれると嬉しいです。それでは。

 

歌詞
夜を一人で往く どこかへ逃げ出したくなって
いつか失うそれだけの 虚しくなるだけの日々
喪失の恐怖を知る それは仕方のないことさ
僕はただそれを受け入れることができないだけ

ああ 燃えるだけ
ああ 尽きるだけ
ああ 消えるだけ
ああ それだけさ みんなそう

星屑が夜空に輝いて 淡い色で全てを照らして
いつかその光を失って 燃え尽きて宇宙の闇に消える
ああ……

まあもうどうでもいいか 夜はいつの間にか明けて
思考停止で一生逃げる どうせ行きつく先は一緒

ああ 燃えていく
ああ 消えていく
ああ 死んでいく
ああ 灰になる みんなそれだけさ
ああ……

ボトルネックという小説について

 僕はこんなんでも一応本を読む事が好きである。読書を嗜んでいると公言するには読書数的に些か憚られるが、それでも一冊の本という紙媒体に紡がれる言葉と、描かれる物語には非常に魅力を感じるし、この目で触れる事が好きである。また、読書というものはあまりにも手軽な娯楽だと感じる。ただ本を開くだけでその中の世界へ飛び込めるのだから。電車での移動時間で本を読んでいるとあっという間に時間が過ぎて目的地へ着いてしまうので、スマホでずーっとTwitterに張り付いているよりよっぽど建設的で有意義な時間を過ごせると思う。まあ結局僕はスマホの魔力に負ける事が大半なのですが……

 前置きはさておき、今回はそんな僕がこれまでに読んできた小説の中で一番大切な、もはや人生にまで影響していると言ってもいい米澤穂信作の『ボトルネック』という小説について書こうと思う。ちなみに米澤穂信といえば、2012年に放送されたアニメ『氷菓』の原作の小説を書いた人でもある。そして、氷菓といえばなんといっても2012年度アニメNO.1ヒロインの千反田えるであろう。彼女が登場したあの2012年、「えるたそ~」の文字列がネット上を席巻した事は未だ僕の記憶に新しい。氷菓を視聴した多くのオタクの心が彼女に殺され、たった四文字の平仮名しか言葉を発せなくなってしまうという未曾有の大惨事が起こったのだ。挙句の果てには彼女の実在を信じて疑わず、「えるたそ~」と唱え続ければいつの日か自分の目の前に現れて自分を救ってくれると信じ続けて引きこもり生活に落ちた者もいるとかいないとか。まあそれは僕の中学生時代の事なのですが……とにかく彼女はまったくもって恐ろしい怪物でもある。まあそれはそれとして氷菓はめちゃくちゃ面白いアニメなのでおすすめです。というか原作はラノベじゃない普通の小説なので挿絵も何もない中であんな秀逸なキャラデザに仕上げたのが凄いと思う。もう7年前のアニメなのか……話があまりにも逸れすぎたので本題にそろそろ戻ります。ボトルネックについてのネタバレがあるので注意を。何も知らずに読んでみたい人はブラウザバックして今すぐに買って読んでみてください。めちゃくちゃ面白いので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した……はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。

 

家庭環境は崩壊し、恋人とは死別し、兄を事故で失う。恋人を追悼する為に東尋坊に訪れた主人公は兄の葬式で体裁を気にする母親から呼び戻されるが、ふとした拍子に崖から落ちてしまう。しかし、気付いたら地元である金沢の街にいた。ひとまず自宅へ戻ろうとするが、そこにいたのは見知らぬ女。その女と問答をするうちに、彼女の正体は生まれてこなかった自分の姉だと悟る。自分が生まれてこなかった可能世界に迷い込んでしまった主人公に対し、姉は「間違い探しをしよう」と提案する。そうして自分の世界と姉の世界との間違い探しをしていくうちに……というのが大体のあらすじである。

 はっきり言って、この物語には一切の救いがない。間違い探しをしていくうちに、姉の世界では全てが上手く回っている事が分かってくる。明るく主人公と正反対の性格をした姉は、決定的な岐路となる場面で些細な事ではあるが、行動を起こしたのだ。そして、「そうなってしまったものは仕方がない」と起こった事を諦めて全て受け入れて、「何もしない」事を選んだ主人公に、ただ「何もかもの選択を誤った」という現実がのしかかっていく。一体どこで間違えてしまったのか。考えた末、主人公はある結論に至る。「自分が生まれてきてしまった事自体がそもそもの間違いである」と。そして、恋人の死の真相が明かされ、主人公が恋人に抱いていた想いすらも……さすがにそこまでは書けないけど、本当にうわぁってなる真相です。

 

 僕はこの小説を読んで、酷く自分と重なる所があった。主人公に酷く共感し、感情移入してしまっていた。僕も基本的に何かあっても余程の事でない限り「仕方ない」と諦観を以て受け入れてしまうところがある。もちろんそれが精神を守る為の自衛手段である事は言うまでもない。彼と同じように捻くれてもいる。何よりも、「生まれてくるはずの姉がいた」という点において全く同じだったのが最大の要因だった。

 母から聞いた話によると僕が生まれる1年前に、生まれてくる事ができなかった姉がいたらしい。1つ違いの姉。今の僕には全くもって想像もつかない事である。もしも姉がちゃんと生まれていて元気だったら今頃どうなっていたのだろうか。ただでさえ親とコミュニケーションを取るのを疎ましがる僕に身内が増えたらもっと面倒になっていたかもしれない。もしくは、姉に感化されて僕という人間の性格が丸ごと変わっていただろうか。もしかすればこんな暗い性格が反転してめちゃくちゃ明るい人になっていたかもしれない。それら全ては今となっては考えても仕方のない事だが、知ってしまったら考えずにはいられない。何よりも、この小説を読んでしまったからには「もしも自分でなく、姉が生まれていたら」という思考をしない方が無理な相談ではないだろうか。この小説の主人公程酷い境遇ではないが、僕がやはりどうしようもない人間である事実は歴然としてあり、人生が上手く回っているとはお世辞にも言えない。そうでなければ今頃こんな生きづらくなっていないはずである。もし仮に姉が僕の代わりに生まれていたならば、今よりは色々な事がマシになっているような気がする。特に根拠はないが、僕は人生における選択肢を悉く外しているような気がしてならない。ギャルゲーならバッドエンドに直行していそう。僕以外の人間ならば少なくとも僕よりは上手に生きられているはずだ。根拠はないが、ただなんとなくそんな気がするのだ。

 仮に並行世界に行けるようになったら僕は真っ先に姉が生まれてきた世界を見に行くだろう。そこでもしも何もかもが上手く行っていたら、僕もこの主人公と同じように失敗作だったと、自分自身がボトルネックだったと心の底から実感するのだろうか。いや本当にこんな事考えたところで何も解決しないんですけどね。でもこの小説にはこんな事を考えさせるくらい僕に対して破壊力があった。読了時は酷く心が沈んだが、これほどまでに僕の精神をぶん殴ってくる本は初めてだった。

 

 サキは精一杯生きていた。

 ぼくも、ぼくなりに生きていた。別にいい加減に生きてるつもりはなかった。しかし、何もかもを受け入れるよう努めたことが、何もしなかったことが、こうも何もかもを取り返しがつかなくするなんて。

 

 生まれてくる種族を間違えたんじゃないか、なんでよりによって人間に生まれてきてしまったのかとは常々思うけど、本当に自分が生まれてこなければ良かった事を目の前でまざまざと見せつけられたら多分もう本当に生きていられなくなるくらいに精神を殺されるので嫌だなぁと思う。生きる意欲は特にないけど家族などの失うものがあるので生きる理由はある。その間は多分這いつくばってでも生きないといけないみたいだから、せめてその中でささやかな楽しみや好きな事で心をちょっとずつ救われていたいと思う。そして、読書をその中の一つにしたい。今年はたくさん本を読まなければなと思う。今は意欲が高いので頑張れる気がする。

 とにかくボトルネックは暗い話、後味の悪い話が好きな人にはうってつけです。文体はそれなりに軽いのでかなり読みやすい方だと思います。僕が自信を持ってオススメできるものなので是非買って読んでみてください。最後に全く関係のない曲を紹介して終わりにします。

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コミュニケーション

 僕は人とのコミュニケーションに慣れていない。慣れていないどころかド下手くそである。知らない人とは全く話せないし、キョドるし、吃る。ある程度慣れたかと思えば今度は執拗なまでに人との距離感を取る。そうでなければ突然距離感を縮めて地雷を踏んで関係を破壊したりする。これでも大学に入ってから物凄くマシになった方なのだが、僕は本当に根本的に人との距離感を測るのが下手くそだ。なので僕は基本的に他人とは必ずある程度の距離を取る事にしている。そうでないと距離感を間違えかねないので。あと人が怖いので。ちゃんと実行できているかは不明だけど、毎度毎度必ずその事を意識している。だけど全部完璧にはいかないもので、当たり前ながらミスだってする。ミスをすると精神的に物凄く落ち込む。僕は話される事を予めある程度想定してそれに対応する回答を定型文的にある程度脳内で用意しておくという所謂「会話のテンプレ」を作っているんだけど、これ以外の事を話されたりするとなんて返せばいいのか分からず頭がパニックになる。あと、自分は自然にやっていると思っていても周りから見たら酷くぎこちなく、不自然に映ったりもするようで。僕自身もかなりエネルギーを使うし摩耗する。

 

 どうして僕はこんなにも人とコミュニケーションを取るだけでいっぱいいっぱいになるのかと原因考えてみると、単純に心が一番発達する時期に人とコミュニケーションを取ってこなかったという経験不足というのが一番思い当たる。特にそういうものを学ぶ場であるはずの小中学でまともなコミュニケーションを取った記憶がほとんどない。

 小中学っていうのは、そういう事で一番成長できる機会で、いわば『心のスタートダッシュ』をする場だと僕は思っている。子供というのはグイグイ成長していくもので、同年代の心が未発達な子供たちが集まってあれやこれやとやっているうちに勝手に言語能力やら心やらが発達していく。そんなスタートダッシュを経て、それに基づいて各々の世界を広げていくものだと僕は勝手に思っている。スタートダッシュとはとにかく肝心で、それに失敗するとどうなるかというと、世界を広げる為の経験が不足しているのだから、当然それに見合った程度の世界しか見られない。そして周りに一度置いて行かれれば追いつけないまま義務教育を終えてしまう。その結果で僕はこんな生きづらい事になってしまったのかなと。

 先も言ったが僕はこれでも本当にマシになった。前はもっと酷かったのが幾らかは改善された。それでもまだ常人には程遠いと思うけど、ある程度の会話はできるようになったので。

 

 しかし僕は最近、というかもはや今日なんだけどある事に気付いてしまった。というかこの事実を受け止めるにはあまりにも辛かったので、整理する為にこの記事を書いている。自分の中の致命的な欠陥を見つけてしまった気分だった。

 どうやら僕は、時たま会話の途中でその会話の文脈が分からなくなってしまうらしい。会話の文脈だけでなく、話している人の言葉の意図も。これは薄々、漠然と気付いていた事なのだけど、これまではこうしてはっきりと自覚するまでには至らなかった。だけど自覚した今、コミュニケーションを取るのにあまりにも致命的すぎると思った。

 例えばAの話をしているとする。相手はそのAについて話しているし、自分も最初はちゃんと会話の内容を理解した上で話す。しかし、話が進むにつれて主題が何だったのか分からなくなってくる。複雑化すればするほど、「あれ?今なんの話をしているんだっけ?」となる。それとともに相手の発言の意図も段々と汲み取れなくなっていく。そうして話の道筋を見失って、僕は何故か全く関係のないBについて話すという意味不明かつ的外れな回答をしてしまう。というイメージだ。果たしてこのイメージが正しいのか自分でもいまいち分かっていないけど、多分こんな感じ。あとはこれが転じて相手の地雷を踏んだり。いきなり意味わからない事言われて話が噛み合わなかったら誰でもイライラすると思うしその上神経を逆撫でするような事を言われたら誰だって嫌だと思います。僕は嫌です。

 この現象は現実の会話だけでなく、ネット上での会話でも起こる。例えばLINEで「この人はこの文面の裏でどんな事を意図しているのだろう」と想像しても全く汲み取れず、とにかく当たり障りのない返答を考える為に既読を付けてから返信するのに多大な時間をかけてしまったり。まあ長々と書いたけど要するに一言で言ってしまえばアスペルガー気味だ。

 しかし、だからといって僕は「我こそはアスペルガー症候群なり!」などと豪語するつもりもないし、する気になれない。言葉の裏を読めなくてもまだなんとか表は読めるし、本当のアスペルガーの人達はもっと辛いだろうし、多分この程度は「ちょっと生きづらいだけの要素」の一つでしかない。逆にこういう中途半端なのが一番辛い気もするけど。

 このままでは本当に人間としてあまりにも致命的だし一生人とコミュニケーションを取れないので一刻も早く改善したいところ。しかしどうすればいいのか分からない。どうすれば治るんですかねこういうの。気付いた瞬間に人と顔を合わせるのも会話をするのもなんだか怖くなってきたのでさすがにちょっとキツい。

 というわけで改善法を募集しています。何かいい方法があったら教えてください。

 

 最後はこの曲で終わります。

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引っ越し

 先日、僕は引っ越しをして新居に住み始めた。僕の記憶の中で引っ越しをするのは初めてで、それがあまりにも大規模なもので僕自身かなり精神を削られた。ようやくある程度落ち着いたので今回は引っ越しについて書こうと思う。

 

 

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 僕を取り囲む家庭環境はどう頑張っても普通とは言えない。そもそも、僕は幼少期からずっと割ととんでもない家に住んできた。立派な木々が周囲を取り囲むように林立し、緑が生い茂り、春には筍が取れ、夏には大量の虫が湧き、秋にはムラサキシメジが生え、冬には大量の落ち葉が降ってくる。当然ながらここは東京である。しかも青梅や奥多摩といった西の奥地でもなく(決して馬鹿にする意図はありません)、どちらかといえば埼玉県に近い方に位置する場所である。一言で表すなら、「緑地のド真ん中に家を建てちゃいました」といったところだ。築五十年は経っているそう。

 話に聞くとどうやら祖父が昔、個人で機械の部品を作る会社を立ち上げた時に建てた自宅兼作業場らしかった。確かに、家には何やら、一体何の用途に使うのか分からない大きな鉄の塊が置いてある工場のような場所がある。恐らくは部品を加工するのに使ったりする機械なのだろう。祖父が何故こんな場所に建てたのかは検討もつかないが、しかし周囲に建っている他の家がないので、ここなら騒音を全く気にせずに作業できそうであるし、そういう理由だったのかなどと勝手に推測している。

 立地が立地なのでこの家で住むには多くの不便があった。第一に虫があまりにも多すぎる。緑に溢れているので当然だが夏場は地獄だ。対策なしに庭を歩こうものなら一瞬にして10箇所は蚊に刺される。僕もどれだけの蚊の命をこの手で奪ってきたか分からない。また蛾も大量発生する。夜なんかは玄関を開けたらすぐに閉めないと光に釣られてドアに張り付いているたくさんの蛾が家の中に入ってくる。他にも蜘蛛の巣はそこら中に張られているし、ゴキブリはもちろん、ムカデやらゲジゲジムシもたくさん出現する。虫嫌いにとっては地獄だと思う。僕は無理でした。あとは光回線が引けないのでインターネット環境が劣悪、風呂が汚いしアナログ式、テレビの電波はちょっと風が吹くとすぐに微弱になる、冬はひたすら冷え込む、下界に降る際に必ず大きな坂があり、出かける度にその昇り降りを強いられるなど、今で考えると色々と厳しいものがあった。僕は幼少期からずっと住み続けていたので慣れていたが、代わりに「家ってみんなこういうものなんだ」と幼い頃の価値観が狂う原因にもなった。

 

 新居に移って僕は初めて「自分の部屋」というものを手に入れた。初めての自分の城である。今までは和室で布団を敷いて祖父と同じ部屋で寝ていた。自分のゲームや楽器等が置いてある部屋はあったが、そこは寝泊まりするスペースはなかった。何せ、前の家はゴミで埋め尽くされていたからである。

 当時、大学生のうちに引っ越すなんて夢にも思っていなかった。都の緑地化計画とやらでいつかは家の土地が収用されて立ち退きさせられるという事は前々から聞いていたけど、まさか一気にここまで話が進むとは予想だにしていなかった。でも今引っ越しの大変さを考えれば、大学生のうちに片付けられて良かったような気もする。社会人になってからじゃ体力も精神も持たない。

 

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物置と化した工場。このビニール袋が奥まで続きスペース全体を埋め尽くしている。

  これらの中身が袋にまとめられず、部屋中に散乱している様子を思い浮かべてもらいたい。使えるはずの部屋はゴミで埋め尽くされ、占拠されていた。今回の引っ越しが大変だったのも、ひとえに大量のゴミの整理と処理に追われたからに他ならない。これらはほとんど全てが僕の母親のものである。というのも、母親は当時精神を患っていた。今はかなりマシになっているけれども、その影響で所謂買い物依存症になっていたらしい。そんなわけで使いもしない化粧品だったり、雑誌だったり、洗剤だったりが家に増え、本人がその事を忘れてまた大量に買っての繰り返しでゴミが積み重なっていくという寸法だ。当然埃もどんどん溜まっていくので家にいる時はマスクが必須だった。はっきり言ってゴミ屋敷と呼んで遜色なかった。

 

 

 引っ越しは苦難を極めた。契約が済んで新居にはいつでも入れる状態になっても家から必要な物を運び出す為にゴミの山を片付けなければならないし、新しく家具を買ったりしないといけなかった。僕はその手の知識にひたすら疎かったし、家族3人(内まともに働けるのは僕のみ)で全てをやるのはどう考えても無理だったので、毎回週末に親戚一同が集って手伝ってくれるという一大行事と化していた。親戚がいなかったら間違いなく今頃引っ越せていなかっただろう。私物の整理だけでも大変だったのに加えてゴミ処理もやった。「どうして母親がやった事の尻拭いをさせられなければならないのか」という気持ちも正直あったけど、病気だったのだから仕方ないと諦めてせっせかと働いた。そして、ついこの間ようやくそれが終わった。

 引っ越しって大変だなと思ったし、もう二度とやりたくないなと思った。少なくとも実家を移すのはもう嫌だ。とにかく精神を削られた。精神的にも肉体的にもしんどいイベントだった。それとも、こんなゴミだらけの家だからこんなに苦労したのだろうか。まあもう無事に終わったし考えなくてもいいような気がするけど。

 こんな感じで前の家の事を散々に書いてきたけどやっぱり長年住んでいたからいざ離れるとなるとまた複雑な心境になるというか。やっぱりなんだかんだ愛着はあったんだろうと思います。あと良いところもあった。周囲に家がないから近所というものを全く考えなくて良いし、すぐそこに緑地公園があって夜中に発狂紛いの事をしても誰にも見られない所とか。でもやっぱり新居の方が100倍便利。文明の進歩というものを僕は肌で実感している。風呂が自動で沸くとか。

 

 引っ越したけど僕にはまだまだやる事がある。僕は今、自分の私物を入れたダンボールと戦っている。自分の荷物をちゃんと出さないといけない、それがあまりにも億劫なので少しずつ進めようと思っている。他にもクーラーやテレビのアンテナがついたり、光回線の工事があったりと新居が完全体になるまでまだまだかかる。

 ちなみに、僕は人を家に呼んで遊んだりする行為に割と憧れている節があるので全部終わったら誰か遊びに来てください。ちゃんと客間があるので個室での寝泊まりも可能です。

 

 どうでもいいけど、僕も物を無計画に買ってみたり、中々捨てられなかったりする癖があるような気がする。別にいらないのに母親の遺伝子を引き継いでしまったのか、将来僕も同じような事を繰り返すのかもしれないと思うと本気でゾッとする。嫌だ。

 

 散漫になってきたので今回はこの辺で。最後に脳を溶かすアンビエントで終わりにします。睡眠用にどうぞ。

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始めました

 ブログというものを始めてみた。最初はブログなんて毛ほども興味がなく、僕はTwitter芸人なのでTwitterさえあれば良いと思っていた。ところが僕は最近になって「あれ?もしや?」とある事に気付き始めた。そしてそれは日を追うごとに大きくなり、次第に確信となって現れた。

「ブログって、もしかして文字数制限がないのでは?」

と。

 

 これを読んでいる人は「今更何を頓珍漢な事を言っているのか」とか「こいつは馬鹿なのでは?」などと思うかもしれないが、これにはちゃんとした理由がある。

 文字数制限がないというのは非常に大きな事だ。何故ならTwitterと違って、思い思いに好きに文章を書けるからである。Twitterではどう頑張っても一つのツイートにつき140字の文字数制限がつきまとう。140字とはとても少ない文字数で、考えている事を発信したり思考を完全に言語化するにはとても足りない。もちろん、あれはあれで要約ゲームみたいなところはあるので少ない文字数で思っている事をツイートしたり大喜利したりで楽しんではいるけども。

 そんなわけでブログは文字数制限がないので、自分の中で渦巻くモヤモヤとした思考を言語化したり、ちゃんと文章にする事によって咀嚼して改めて理解したり発信して消化したりする、所謂「お気持ち表明」に最適のツールである事に僕は今更気付いた。その事に気付いた瞬間、僕の脳内に稲妻が走った。「そうだ!僕は今まさにこれを求めていたのだ!」と。そう思ったのはとある人が書いていたブログを読んでいたのがきっかけなのだけど、個人名なので名前は伏せます。でも結構感謝しています。あと僕は前々からちゃんと文章というものを書いてみたいと思っていたのでその練習も兼ねている。

 どうでもいいが僕は題名や名前を考える事がとても苦手だ。ブログのタイトルだってそのまんまだし、親バレを避ける為に本名と関係ないニックネームを考えてはいるもののよく分からないものになっているし、ユーザー名は僕が心の底から敬愛するバンドである「syrup16g」と「ART-SCHOOL」という名前をただ組み合わせただけだし。とにかく僕はネーミングセンスに恵まれていない。ちょっと捻った名前を考えようとしたらあらぬ方向に捻って周囲の失笑を買う事が常である。なので名前を決める時はもう発言しないししたくないと思っている。よって僕にそういったものを求めるのは筋違いである。僕に振らないでください。世の中無難が一番です。

 たまにズバリこれ!という名前を考える人がいるが、僕はその才能が心底うらやましいと思う。ちょっとぐらい分けて欲しい。

 

ちなみにART-SCHOOLsyrup16gもめちゃくちゃ良いバンドなので皆聴いてください。お願いです。

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閑話休題

 

  Twitterがごった煮の思考をそのまま放り投げるゴミ箱なら、ブログはその思考を自分なりに繋ぎ合わせてちゃんと言語化して消化する、という作業をやる場所だと思う。今まではそんな事をしなくても良かったのだけど、ここ最近になってそうもしていられなくなったというか。まあ端的に言えば考える事がとっ散らかりすぎていよいよ精神のキャパを超えて僕の精神状態が悪化するまでの状態になってしまった(逆かもしれない。どっちでもいいけど)。Twitterでただ「ウワー!」とか「オエー!」とか喚くのも良いけど結局何も根本的な解決にはならないので僕はこうやってブログで好き勝手に文章を書いてそいつらをなんとか消化しようとしているわけである。 

 要は僕の精神状態を安定させる為の自己満足でもあります。あと文字書くの楽しいし。そんなわけで拙い文章ですが読みたい人はご自由に読んでくださいという感じです。でも読んでから僕に「長文くっさ」とか「誰も興味ないのにお気持ち表明してて草」などと石をぶつけてくるのだけはやめてください……傷つくので……くさいとか思うならこの記事だけ読んであとはもう金輪際ここを開かない事をおすすめします……

 

 まあ不定期更新だし三日坊主だからもしかしたらこれが最初で最後の記事になるかもしれない。でも今は書きたいことがいっぱいあるので続くかも。まあ気分が乗ったらで。

 最後にMONOという僕が日本で一番好きなインストバンドの曲を貼って終わりにします。

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大音量で聴くと極上です。終わり。